今回は、京都・醍醐寺にフォーカスして とある一説をご紹介したいと思います。
まずは、「義演准后日記」より物語は始まります…
「義演准后日記」とは、醍醐寺座主の義演(戦国時代から江戸時代にかけての真言宗の僧)によって著された日記である。
……今日太閤御所渡御せらる、女中各御成あり、終日花御遊覧す、路次茶や以下の結構、筆舌に尽し難し、一時の障碍なく、無為に還御せらる……
【意訳】今日、太閤殿下が醍醐寺へお越しになった。妻妾たちも引き連れて、一日じゅうお花見を楽しまれる。境内のあちこちで茶席が設けられるなど趣向が凝らされ、筆舌に尽くせぬ素晴らしさだった。すべてつつがなく終わり、無事に帰られてホッとしている。
※『義演准后日記』慶長3年(1598年)3月15日条
……これは義演が書いた日記の一節。天下人・豊臣秀吉が最晩年に楽しんだ「醍醐の花見」の様子です。
文中「一時の障碍なく、無為に還御せらる」という表現に、何はなくともトラブルがなくて、ホッとしたのが伝わりますね。
この短い文章だけ読むと、何となく秀吉がフラッとやって来て花見を楽しんで帰ったような印象を受けます。しかし派手な演出を好むあの秀吉が、そんなノープランでイベントに臨むはずがありません。
という訳で今回は醍醐の花見について、秀吉の下準備から紹介。天下人ならではの徹底ぶりに感心するやら呆れるやら……。
天下人に相応しい?ケタ違いの会場設営
時は慶長2年(1597年)3月8日、秀吉は何の用事か醍醐寺を訪れた時、見事な桜に心を奪われました。
そんな事があって翌年、秀吉は「今年の花見は醍醐寺でやろう!」と思い立ち、2月9日に醍醐寺を下見に訪れます。
「せっかくだから、もう少しパッとさせたいな……そうだ!」
秀吉は境内にあった二王門を修理させ、山上やり山(築山?)や御殿数宇(数棟の御殿)を建てるよう命じました。
加えて花見の主役である桜をもっと増やそうと、吉野をはじめ畿内各地から桜の銘木700本を掻き集めて植えさせたのです。
果たして「桜ノ馬場」から「やり山」にいたる350間(約637メートル)の桜並木が完成。
これだけでも充分に凄いのですが、秀吉は更に伽藍を直させ堂宇を移築(自分好みに配置させ直したのでしょうか)、聚楽第にあった銘石「藤戸石」を持って来させるなど矢継ぎ早に指示しています。
他にも三宝院門跡の寝殿や泉水・金堂・講堂・食堂・経蔵・湯屋などが修理・建立され、もはや新たに寺院を創建する勢いでした。
「急げ!何としても花見に間に合わせよ!」
「御意!」
花見の奉行には前田玄以(五奉行の一)が指名され、工事やら何やら一切合切を取り仕切ったと言います。進捗が気になる秀吉がちょくちょく視察に来たそうで、かなりのプレッシャーだったことでしょう。
そのため境内はてんやわんやの大騒ぎでしたが、それまで応仁・文明の乱で荒廃していた醍醐寺が美しく復活したのです。
……御殿数宇建立し、例年の慶事に過ぐ、満足筆舌におよぶところにあらず、自愛々々、およそ上古に恥じざるものか、これ偏に太閤御所の御恩有り難く、殊に領地等まで拝領す、内外の相応、大師の御加護を銘肝す……
【意訳】これほどまでに寺院を立派にしていただき、めったにないこの感謝は筆舌の及ぶものではない。この素晴らしさは、かつての全盛期にも劣らぬほどだろうか。それもこれも、とにかく太閤殿下の御恩に他ならない。加えて領地までいただけたことは、仏の御心に太閤殿下がお応え下さった賜物である。すべては弘法大師(真言宗開祖・空海)の御加護であることを肝に銘じたい。
※『義演准后日記』慶長3年(1598年)12月30日条
義演は秀吉の死後、一連のことを このように締めくくっている。
……かくして3月6日に醍醐寺のシンボルとも言える五重塔の修理(前年12月から着工)が終わり、3月15日に当日を迎えたのでした。
「……間に合った……」
2月9日から一ヶ月足らず。ここまでの大工事を一気に終わらせるために、どれほどの人員や資金がつぎ込まれたのか、まったく想像もつきませんね。
いよいよ当日。目の回るようなイベント尽くし
さぁやって来ました醍醐の花見。準備万端ととのえた秀吉は、意気揚々と醍醐寺へ向かいます。伏見城を出発した秀吉ご一行、今回の主な参加メンバーは以下の通りでした。
- 豊臣秀吉
- 豊臣秀頼(秀吉嫡男)
- 北政所(秀吉の正室。寧々)
- 西ノ丸殿(秀吉の側室。淀殿、茶々)
- 松ノ丸殿(同。京極高吉の娘)
- 三ノ丸殿(同。織田信長の娘)
- 加賀殿(同。前田利家の娘)
- まつ(前田利家の正室。来賓)
- 前田利家(五大老の一。来賓)
このほか1,300名の来賓が招待されたと言います。
醍醐寺までの道のり一里一町(1.2里≒4.8km。Googleマップ調べ)はしっかりと整備され、油断なく警備体制が敷かれていました。この辺りも秀吉は抜かりありません。
境内に到着すると、あちこちに茶屋が設けられ、それぞれに名立たる大名・重臣たちお出迎えという趣向です。
一番茶屋:益田少将(益田元祥か)
二番茶屋:新庄雑斎(一松雑斎、新庄直寿)
三番茶屋:小川祐忠(土佐守)
四番茶屋:増田長盛(五奉行の一)
五番茶屋:前田玄以(徳善院)
六番茶屋:長束正家(五奉行の一)
七番茶屋:御牧景則(勘兵衛)
八番茶屋:新庄東玉斎(新庄直忠)
本題の花見はもちろん、庭園や美術品の鑑賞、演芸披露に和歌の会……朝から晩まで目の回るようなイベント尽くし。いったい何をしに来たのか忘れてしまいそうですね。
また秀吉は今回の花見に臨んで妻妾たちに一人三着ずつの着物を新調させ、一日で二回の着替えを命じたといいます。その金額は現代の貨幣価値で約39億円相当とのこと。天下人ともなると、道楽もケタ違いと言ったところでしょうか。
勃発する女のバトル!側室たちの盃争い
さて、花見と言えば酒宴がつきもの。秀吉たちは席について、さっそく盃を傾けました。
「さぁさぁ、一献」
秀吉はいの一番に正室である北政所に酒を注ぎます。次は誰に注ごうか……序列から言えば松ノ丸殿ですが、近ごろ寵愛の深い淀殿にしようか迷ってしまうのが秀吉という男です。
「あなた、殿下が迷われているでしょう。こういう時はさりげなく身を引くものです」
松ノ丸殿が、そっと淀殿をたしなめました。側室としては先輩だし、実家の格(※)も高いため、言い分には一理あります。
(※)松ノ丸殿は京極家の出身で、淀殿の実家である浅井家の主君でした。
しかしここで引き下がるような淀殿ではありません。
「あなたこそ、お察しの悪い。こういう時は『目下の者』に花を持たせるものですよ?」
淀殿は秀吉の寵愛深く、唯一の嫡男である秀頼の生母。ここで引いてなるものかとばかり張り合います。
なんてワイワイギャアギャアしていたら、来賓のまつがやって来て盃を奪いとりました。
「こういう時は、年齢順でいきましょうね?さぁ殿下。私にお酌を」
「う、うむ」
第三者が介入することで一件落着。お客を放り出して身内の序列争いなんてみっともない……暗に諭された二人は、そっと反省したのでしょうか。
終わりに
何やかんやあったものの、つつがなく終えることの出来た醍醐の花見。奉行を務め上げた前田玄以はじめスタッフ一同の安堵感は、察するに余りあります。
その後、同年8月18日に秀吉は伏見城で世を去りましたが、この世の良い思い出になったことでしょう。
また、現代でも醍醐寺では毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を開催。観光の目玉として多くの観光客で賑わうと言います(※ただし新型コロナウィルスの影響により、最新情報については要確認)。
時代劇や大河ドラマなどでも多く演じられるこの名場面。もし伏見を訪れる機会があったら、是非とも醍醐寺にも参詣して往時を偲びたいものですね。
※参考文献:
- 桑田忠親『日本歴史叢書 桃山時代の女性』吉川弘文館、1996年1月
- 中島俊司『醍醐寺略史』醍醐寺寺務所、1930年6月
- 山田孝雄『櫻史』講談社学術文庫、1990年3月
- 京都 醍醐寺 文化財アーカイブス 特集1 第五の花見 ―豊臣秀吉と義演准后―
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