徳川家康の幼少期・人質時代から、ずっと一緒に付き従って苦楽を共にしてきた鳥居元忠。父・鳥居忠吉はもちろんのこと、先祖代々主君に忠義を尽くした譜代の一族です。
元忠は数々の戦場で武勲を重ねた文武両道の名将ながら、天下分け目の関ヶ原合戦の前哨戦・伏見城の戦い(慶長5・1600年)で命を落としてしまいました。
家康から託された伏見城を石田三成らの大軍から守り抜き、わずかな兵でも怯むことなく敢然と戦い抜いた忠義の雄姿に、感涙を催さずにはいられません。
今回は『名将言行録』『寛政重脩諸家譜』より、鳥居元忠の最期を紹介。大河ドラマの予習復習、また違いを味わうのにおススメです。
会津遠征に向かう家康。元忠たちと永の別れ
時は慶長5年(1600年)4月、家康は会津にいる上杉景勝を討つために兵を挙げました。上杉は強敵ですから、一人でも多くの兵を動員せねばなりません。
しかし上杉に全力を注ぎ込むと、今度は上方で石田三成ら反・徳川勢力が兵を挙げ、背後を襲ってくる危険性が高まります。
そこで時間稼ぎのため、鳥居元忠に伏見城を任せ、わずかな兵で守らせたのでした。
もし三成たちが兵を挙げれば、真っ先に伏見城が狙われ、元忠たちが生き残ることはできないでしょう。
『名将言行録』では家康と元忠が一対一で語り合い、永の別れを告げます。
……家康会津に向ふ時、伏見城を元忠等をして守らせ、既に発せんとせし時、元忠を召し、今度士卒少くて残り止まることを言はれければ、元忠会津は強敵なり、一人も多く召具せられ然るべし、伏見には某一人にても事足り候、世上無事ならずして変の出来し時は、近国に援くべき味方もなし、仮令今の十倍の兵残し置れたりとも、防ぐべき様は之なくと申けるに、家康黙して居られしが、漸々ありて駿河宮ヶ崎にて十一歳になりし時、彦右衛門は十三にて、初めて出でたりしに、年久しくもなりぬるよとて、物語に夜痛く更ければ、元忠会津の御留守、世に変なく候はんには、復た御目見も仕らん、若し事あらば、今夜永き御別にて候と、座を立兼ねたりしかば、家康袖を以て落る涙を掩てぞ居られける……
※『名将言行録』巻之五十一 鳥居元忠
家康「すまんのぅ、伏見に多くの兵を残してやりたいのだが……」
元忠「何を仰せか。会津は強敵なれば、一人でも多くの兵をお連れ下され。この伏見城は、それがし一人でも守り通して見せまする」
逆に、どうせ伏見城の周りは敵ばかり。正直なところ、ちょっとくらい兵を増やしたところで到底守り切れるものではありません。
元忠たちを見殺しにするやましさから、押し黙ってしまう家康。気まずい沈黙を何とかしようと、やがて思い出話を始めました。
家康「思えば、彦右衛門が初めて仕えた時、わしは11歳じゃったな」
元忠「はい。それがしは13歳。楽ではありませんでしたが、楽しい日々にございました」
それから二人は夜が更けるまで語り合います。
元忠「まぁ、何もなければまたお目通りも叶いましょう。もし事が起こればその時はその時、武門の習いとお覚悟召されませ」
決死の覚悟に胸を打たれた家康。とっさに袖で顔を隠したものの、涙の染みを隠せませんでした。
一方『寛政重脩諸家譜』では、元忠の他にも松平家忠・松平近正・内藤家長らも同席させています。
……十七日伏見城に御滞座あり、元忠をよび松平主殿助家忠、内藤彌次右衛門家長、松平五左衛門近正等を御前にめされ、我今度景勝を征伐す、渠が滅亡時日を移すべからず。しかれども石田三成このときを覘て叛心を企つべきの疑ひあり、これによりて汝等を選みて、この城を守らしむ。もし變あらば、木下若狭守勝俊が松丸の兵をもつて援平(兵)とすべしとの鈞命をかうぶる……
※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居
こちらはあまりしんみりしておらず、簡潔な表現がかえって難任務の緊張感を引き立てるようにも感じます。このまま何もなければよいのですが……。
石田三成らの降伏勧告を毅然と拒絶さて、慶長5年(1600年)7月15日。兵を挙げた石田三成らが、大軍を率いて伏見城へ押し寄せました。
「城方へ告ぐ。その方らに勝ち目はない。ただちに城を明け渡すべし!」
この使者は『寛政重脩諸家譜』では単に「三成が使」とだけ記されているのに対し、『名将言行録』では増田長盛の家臣・山川半平なる武将が使者に立っています。
これに対して、元忠は毅然とこれを拒絶しました。
……某等この城を守ることは主君の命によりてなり、譬豊臣家の仰なりといふとも、関東の沙汰なくしてこれを渡しがたし、内府の家勇士多きが中にも、某等を選みてこの城を託し置るゝ上は、百万の兵を率ゐて、これを攻らるゝとも、敢てさらじ。孤城援勢なし、速に来り攻て、我輩の武勇を試みらるべし……
※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居
【意訳】
それがしらがこの伏見城を守るのは、主君の命によるものだ。たとえ誰が何と言おうが、関東=家康の許可なく明け渡すこと罷りならぬ。徳川家中でも選り抜きの勇士たる我らが守るからには、たとえ百万の軍勢でも退きはせぬ。こんな小城と侮るならば、さっさと攻めて来るがよい。我らが武勇のほどを思い知らせてくれる!
……歴戦の元忠なればこその説得力、実にカッコいい台詞ですね。それでは『名将言行録』の方も見てみましょう。
……元忠聞て過し比、内府会津に向ひし時、固く守るべしと申て候に、今敵に渡さんことは、存も寄らず、且つ増田殿は内府に親みある故、斯る事を述らるゝとは心得られず、若しおめおめと城を渡さんに、同くは城を枕にせよとの御使を賜はりなば、辱くとも申べし、疾く城を出よとは、武将の詞にはあるべきことゝも存ぜず、疾く寄せられ候へ、討死せん、使若し再び来らば斬て軍に徇(となへ)んと答へり……
※『名将言行録』巻之五十一 鳥居元忠
【意訳】
家康様から堅く守れと命じられた以上、おめおめと敵に明け渡す訳にはいかない。城が欲しければさっさと攻めるがいい。もしつまらぬ使者など寄越したら、今度は斬り殺して軍神の血祭りに上げてやる!
……元忠の決意を聞いて、増田長盛や渡辺勘兵衛(三成家臣)らは英雄を討たねばならぬ定めを歎き、共に涙を流したということです。
長さは想いに比例する?息子たちへ贈った、元忠の遺言
さて、城を明け渡さぬと覚悟を決めたら、まずは家康に向けて石田三成挙兵の報せを届けねばなりません。
元忠は家臣の濱嶋無手右衛門を派遣、同時に家康と行動を共にしている嫡男の鳥居忠政や息子たちに向けて遺言を送りました。
今度上方の大小名数多石田が奸計に陥て尽く蜂起し、先づ當城を攻落さんとの聞えあり、我等に於ては城を枕に討死すべき覚悟なり
~中略~
第一行跡のこと、嗜み礼儀正しく、主従能く和し、下に憐愍を加へ、賞罰の軽重を正して親疎の依怙あるべからず、人の人たる道を以て本と為すべし
※『名将言行録』巻之五十一 鳥居元忠
【意訳】
「こたび西国の大名たちが石田めにそそのかされて、この伏見城を攻めようとしている。父は城を枕に討死する覚悟である。たとえ連中が何十万という大軍で攻め寄せ、完全包囲しようが、城を明け渡すのは武士の本意すなわち忠義ではない。
父はここで天下の軍勢を一身に引き受け、百分の一にも満たない少人数でも力の限り防戦し、目覚ましい討死を遂げよう。徳川家臣の中には託された城を明け渡して命を惜しみ、敵に弱みを見せるような卑怯者はおらぬと天下に知らしめてやるのだ。
こういう一大事でなくても、恥を知る武士は死ぬべき時に死を逃れようとはしないものだ。まして主君のために命を落とすのは武士として当然のこと。日ごろから覚悟しておいたのだから、いざこうして死に場所に恵まれたのは幸運と言うよりない。
そなたもよく心得よ。我が鳥居家は先祖代々の松平家(徳川家)に忠義を尽くした譜代である。とりわけ亡き父・伊賀守(鳥居忠吉)殿は殿の祖父・松平清康公から三代(清康・広忠・家康)にわたって奉公され、兄の源七郎(鳥居忠宗)殿は渡里(渡河内)で主君を守って討死された。
我らが神の君ご幼少のころ、父は人質にとられた時も駿府までお供し、岡崎に戻ってからは今川の目を盗んで軍資金を蓄えたのだ。そして殿が15歳で岡崎に帰られた時も忠義を尽くし、80余歳で亡くなるまで二心を抱くことなど決してなかった。
父も13歳で殿に初めてお仕えして以来、今日に至るまで奉公して御恩をこうむり、かたじけなき思いを決して忘れることはない。こたび殿が会津へ遠征なされた折も、我らが決して裏切らぬとお信じになられたからこそ、我らを選抜して伏見城の守りをお任せ下さったのだ。まこと武士の冥利に尽きるというものよ。
天下の大義を掲げて誰よりも先んじて主君のために命をなげうつ。これこそ鳥居家の名誉であり、永年願い続けてきたことである。
父が討死した後は、そなたは我らに代わって久五郎(元忠三男・鳥居成次)や、まだ幼い弟たちをよくいたわり養ってやるのだぞ。弟たちも新太郎(鳥居忠政)を親代わりに思って、言うことをよく聞くのだぞ。
それぞれ成長したら殿のお役に立てるよう、生まれ持った才能を発揮して、心ひとつに力を合わせてご奉公せよ。
常に先祖代々の苦労と主君からの御恩あってこそ、鳥居家の未来があることを忘れてはならぬぞ。いかなる時も徳川の御家と運命を共にし、決して他家に仕えようなどと思ってはならぬ。この教えを寝ても覚めても決して忘れるなよ。
やれ一国を与える、所領を加増してやるなどと欲望に目が眩み、またちょっと気に入らないからと主君を裏切る輩は人の道に外れておる。たとえ日本全国ことごとく敵に回すことになろうと、我ら鳥居家一門だけは、決して徳川家を裏切って他家へ足を踏み入れてはならんのだ。
ひたすら一族兄弟心を一つにして主君に忠義を尽くし、互いに助け合って義を守って武勇に励み、先祖代々特に伊賀守殿の名誉を決して汚さぬように心がけよ。
兎にも角にも命は主君のために奉げたものとよくよく心と腹に落とし込んでおけば、どんな災難に教われようとも、少しも慌てることはなくなるだろう。
父は今年で62歳になった。三河で殿にお仕えして以来、万死一生の窮地をくぐり抜けたことは数えきれないほどであった。しかし一度として後れをとったことはなく、人間の生死も幸不幸もすべては時の運に過ぎないと開き直って突き進んできたのだ。
とは言っても若気の至りに暴走するのではなく、先輩や上司の教えをよく聞いて、親しい者たちの忠告をうるさがらず真摯に受け止めることが肝要である。
ところで、皆の中には「天下はもうすぐ徳川のものとなるだろう。だから今の内に奉公に励んでお取り立てにあずかろう」などと思っている者はいないだろうか。もしそう思っているなら、すぐにも考えを改めた方がいい。武士として命運が尽きる兆しだからだ。
やれ官位が欲しい、知行が欲しい、大名になりたいなどと欲心に駆られると必ず命が惜しくなる。武士が命を惜しんで、何の軍功をなせると言うのか。
いやしくも武家に生まれながら忠義を尽くさず、ただ我が身を富み肥えさせることばかり考える者は、人にへつらって悪だくみを思いつくようになるだろう。
義を捨てて恥を知ることもなく、先祖代々の武名を末代まで汚すことになってしまう。そのことが、誠に残念でならないのだ。
長くなったが、何よりも行儀を嗜み礼儀正しく振る舞い、主従の絆を強めて領民たちをよくいたわるべし。賞罰は公平適性に、決して親疎の差でえこひいきしてはならない。人間が人間である道理をもって、生きる指針とせよ」
……とのこと。真面目に読んで下さった方はお疲れ様です。先祖代々の忠義から父・鳥居忠吉の功績、そして家臣としてあるべき精神論までしっかりと詰め込まれていますね。
正直なところ冗長に過ぎるきらいもあるものの、それだけ元忠が徳川家中きっての忠臣たる自負をもっていたことが伝わってきます。
さて、使者を発したあと『寛政重脩諸家譜』によると、三成に組していた筑前中納言こと小早川秀秋が「徳川殿には以前お世話になったし、戦いたくない。どうしてもと言うなら鳥居殿にお味方したい」と申し出ました。
しかしこれが敵の策略でないともわからないため、元忠は「殿に確認するので、しばし待たれよ」と返答。家康に伺いを立てるため、家臣の與田彌五右衛門を使者に出します。
もしここで小早川勢が加わってくれれば、かなり心強かったでしょう。しかし残念ながら時間切れ、三成たちと一緒に伏見城を攻め立てる側に回ったのでした。
完全包囲された伏見城。いよいよ戦闘開始
いよいよ近づく開戦の時。元忠は伏見城内の配置を指示します。
- 本丸………鳥居元忠・内藤家長・佐野綱正
- 西ノ丸……松平家忠・松平近正
- 松ノ丸……深尾元一・岩間兵庫
※『寛政重脩諸家譜』より
先ほど「……もし變あらば、木下若狭守勝俊が松丸の兵をもつて援平(兵)とすべし……(寛政重脩諸家譜)」と家康が言っていた通り、松ノ丸は木下勝俊が守備していましたが、いざ石田らの大軍が迫ると逃亡。
ともあれ伏見城内に残った兵は総員1,800名ほど。これに対して、7月25日に伏見城を包囲した寄手の配置はこうなりました。
- 西南……毛利秀元・島津義弘・宗義智など
- 東南……宇喜多秀家など
- 東北……鍋島勝茂・立花宗茂・筑紫広門など
※『寛政重脩諸家譜』より
他の大名たちは遠巻きにぐるりと包囲していたのでしょう。眼下に群がる大軍を前にして、元忠は酒宴を催しました。
……このとき元忠諸士を本城にあつめ、今この乱にあたりて敵味方分明ならずといへども、ひとり某にをいては城を枕として討死を遂、天下の士に義をすゝめ、且当家の風儀は其預る城を人にあたふる法なき事を、世に示さむとをもふなり。これによりすでに死をきはむるのことは、関東に告たてまつる。各もまた必死の志に安ずべし。いで最後の名残おしまむとて、酒宴を設けてこれを饗す。諸士もまた大に其義に勇む……
※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居
「今からでも、命の惜しい者は敵方に降るがよい。たとえ一人になろうと、それがしは城を枕に討死を遂げ、天下に武士の義を示す。ひとたび主君からお預かりした城を、おめおめ敵に与えるような振る舞いは、決して徳川の流儀でないことを知らしめてやるのだ。殿にはすでに死の覚悟をお伝えしている。皆もまた志をもって務めをまっとうせよ。それでは最後の名残を惜しもうではないか」
「「応!」」
かくして7月29日、伏見城の攻防戦が開始されました。
……二十九日より晦日にいたるまで、諸手の大兵城を攻る事甚急なり。両日の間合戦凡六度に及ぶ、しかれども城中の諸士心を合せ堅く守て屈せず。ときに秀秋が先手夥しく火矢を發つ、これにより櫓に火かゝりて危うかりしかば、元忠が家臣加藤九郎右衛門某をして、これを防がしむ。九郎右衛門櫓に上るのとき、ふたゝび發つ處の火矢にあたりて命を殞す。この日松の丸を守れる深尾元一が組の者、志を変じて秀秋義弘等に内応して、城を焼の時刻をさだむ。これにより義弘等兵を率ゐて城近く至る。元忠家臣等奮ひ戦てこれをうつ。夜半に及びて内応せし輩、火を城中に發つ。秀秋等大軍を引て競ひすゝむ……
※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居
7月29日から7月30日(太陰暦なので31日は存在しない)の2日間にわたり、両軍の激戦が繰り広げられました。
戦闘は6回にもおよび、圧倒的大軍を前にしても元忠たちは怯みません。しかし小早川秀秋が火矢を放ったために櫓が炎上。これを消そうとした加藤九郎右衛門は射殺され、城内に延焼します。
また、松ノ丸を守備していた深尾隊の者たちが小早川秀秋・島津義弘と内応して深夜に城内へ放火。混乱に乗じて彼らの大軍が攻め込んできました。
これによって城方はたちまち劣勢に。元忠は軍勢を建て直すべく、必死に采配を振るいます。
「我が首とって誉とせよ」雑賀重次との一騎討
……八月朔日火ますゝゝ熾なり、家忠家長近正等防戦して討死す。元忠も苦戦すといへども、火已に天守にかゝり、永く城を保つべきにあらず、手勢等もおほく討れしかば、家臣等元忠に生害をすゝむ。元忠がいはく、敵の為に圍れて自害する事は主将たるものゝ本意にあらず、刀の目釘の折るゝまでは、ひとりなりとも敵兵を滅して斬死すべきなり。我むかし三方原にをいても、さしもに名高き武田が先手をさへ追崩せり、今これらの敵物の数とせず、おもふまゝに斬捨て天下の人に目を覚さすべしとて、大手の門をおしひらき、二百餘人を帥ゐて、切て出、大敵を追退け城内にいる。かさねて敵兵競ひきたれば、またこれを追退ること凡三度に及び、敵をうち捨る事数をしらず……
※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居
夜が明けて8月1日。伏見城の炎はますます大きくなり、激しい戦闘のすえに松平家忠・内藤家長・松平近正らは討死してしまいました。
炎は天守閣にも燃え移り、いよいよ落城は避けられない様子です。それを見て、家臣の一人が元忠に進言します。
「もはやこれまで。ここは我らが防ぎますゆえ、敵の手にかかる前にご自害召されませ」
生きて敵の辱めを受けることのないよう、潔く自ら命を絶つべき……しかし元忠の考えは違いました。
「それは自分自身の名誉を考えた場合の行動であり、主君への忠義とは異なる。刀の目釘が折れるまで、一人でも多くの敵を冥途の道連れにしてくれようぞ!」
たとえ自分はどんなに惨たらしく、惨めな最期を遂げようと、それが主君のためになる限り見苦しく戦い抜いて時間を稼ぐ。それこそが元忠に課せられた使命です。
「かつて三方ヶ原の戦い(元亀3・1572年12月22日)で惨敗を喫した折、天下に名高き武田の軍勢を迎え撃った窮地を思えば、これほどの敵はどうという事もない。思うままに斬り捨てて、三河武士の恐ろしさを天下に知らしめてくれるわ!」
そう勢い込んで元忠は大手門を開かせ、生き残った二百名ほどの兵を率いて出撃したのでした。
「周りはすべて敵ばかり。者ども、遠慮なく斬り回ってやれ!」
「「応!」」
斬っては下がり、また出ては斬ってを繰り返すこと三度、打ち捨てた敵の首級は数え切れないほどだったとか。まさに窮鼠猫を噛むですね。
しかし戦いも五度に及ぶと、さすがに元忠たちもボロボロ。生き残っているのはわずか十騎ばかり、傷を負っていない者は一人もいません。
「やれやれ、さすがに疲れたわい」
元忠は手にしていた薙刀を杖としてしばし前線を離れ、石壇に腰掛けました。
「そこにおわすは鳥居殿か」
やって来たのは雑賀孫一重次。鎗をしごいて襲いかかります。
「いかにも、我こそは伏見城代・鳥居彦左衛門。我が首とって誉とせよ!」
元忠は杖にしていた薙刀を構え直して挑みますが、今や意識も朦朧として、もはや重次の敵ではありません。たちまち打ち払われてしまいました。
「鳥居殿ほどの名高き方が、それがし如き弱輩の手にかかって討たれるのは忍びのうございます。どうかご自害召されよ。首級を申し受けて、末代までの名誉と致します」
「……今はこれまで。よかろう、そなたにこの首をやろう」
ついに観念した元忠は、広縁に上がって腹を掻き切り、壮絶な最期を遂げたのでした。享年62歳。
三成、非道なり!梟された元忠の首級
……はじめよりこれまで討て出で戦ふ事凡五度、敵を斬事其数をしらず。爰にをいて元忠城中に入りしとき其従兵わづかに十騎斗、四方に火かゝり城中に大軍みだれあひて、打残されし輩なを敵と戦ふ。元忠長刀を杖とし石壇に腰うちかけて、しばらく息をやすめ居る處に、鈴木孫三郎某が組の士雑賀孫一重次と名のり、鎗を取て突かゝりしかば、城の大将鳥居彦右衛門元忠こゝにあり、首とりて名誉にせよと、長刀を取直して組むかふ。重次たちまち鎗をふせ大将の身として匹夫と斬死せられむは遺恨なり。今はこれまでなり、すみやかに生害あられよ、其しるしを申うけ、後代の誉とせむと申ければ、元忠しかりとし、汝に首を得さすべきなりとて、広縁に上りて腹かき切て死す。年六十二……
……この日元忠にしたがひて戦死する宗徒の郎等五十七人、其餘兵七百餘人、歩卒数百人に及べり。こゝにをいて孫市重次、元忠が首を得て実検に備ふ。三成これを公卿臺にすへて、大坂京橋口に梟首す……
※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居
かくして伏見城は陥落し、元忠ら忠義の勇士らは戦場の露と消えたのでした。この合戦で元忠と共に討死した者は、一門の郎等57名・そのほか700余名・歩兵数百人に及んだと言います。
さて、雑賀重次は元忠の首級を実検に供えたのですが、三成は自分たちに刃向かったにっくき元忠を大坂京橋口に梟(きょう)する暴挙に出ました。さらし首です。
※なお『名将言行録』によると、元忠を討ったのは重次の子供である雑賀孫市重朝となっています。
「いくら手こずらされた憎い敵だからと言って、忠義を貫いた名将に対して、この扱いはひどすぎる……」
大坂の人々は口々に三成を非難しました。佐野四郎右衛門という京都の町人も、元忠の死を悼む一人でした。
……元忠の首を大坂京橋に梟せしを、京都の町人佐野四郎右衛門と曰ふ者、元忠に親みのありしかば、斯る忠義の人の首を悪逆の人と同く、曝すことやあるとて、夜深て取盗み、智恩院の内某地に葬る。後一宇を建て、龍見院と名(なづ)く。石田が聞かば必定罰すべし、詮なきことなりと言ける者あり。佐野深く恩恵を受けし身なれば、白刃を踏までこそなからめ、是程の事は人の義なり、義なきは禽獣なり、人生れて死せざることなし、刑罰に逢はんこと少しも苦しからずと言けるとぞ……
※『名将言行録』巻之五十一 鳥居元忠
四郎右衛門は夜中に元忠の首級を盗み出し、智恩院の境内にこっそり埋葬。後に御堂を建立して、龍見院と名づけました。
※寺伝によれば、龍見院は慶長10年(1605年)に元忠の菩提を弔うために嫡男の忠政が創建したということです。
もし三成にバレたらただではすまないでしょう。一部の口さがない者が批判するのに対し、四郎右衛門は胸を張って言い返します。
「鳥居様より受けた御恩を思えば、白刃を踏めという訳でもなし、このくらい大したことではない。義を忘れる者は畜生に等しい。どうせ人間一度は死ぬのだし、義をまっとうできるなら、刑罰など恐れるに足りぬものか」
その潔い態度に天下の人々は深く感銘を受け、四郎右衛門の義挙を賞賛しました。
「どうする家康」と「伏見」
2023年(令和5年)の大河ドラマは、松潤こと「嵐」の松本潤さんが主演で徳川家康に扮装し第62作目『どうする家康』で熱演している。その『どうする家康』で鳥居元忠を演じるのは音尾琢真さん。実直に殿に忠義を尽くす彦 右衛門(鳥居元忠)を演じています。
NHK大河ドラマ「どうする家康」ストーリー確認
ドラマは終盤に差し掛かり、第39回「太閤、くたばる」でムロツヨシ扮する豊臣秀吉が世を去り、第40回「天下人家康」でいよいよ松潤家康が伏見城で天下人として権勢を振るうようになった。
そしていよいよ次回、第41回「逆襲の三成」で音尾琢真さん扮する鳥居元忠が……
家康の判断で佐和山城に隠居させられた中村七之助さん扮する石田三成。その三成の企てで反家康勢力を上杉景勝の征伐に向かった家康の背後 西から東へ向けて動かす。その時、鳥居元忠は家康から伏見城を任されている……
さあどの様に描かれるのか、今から楽しみですね。
終わりに
伏見城の合戦・関連略年表
慶長5年(1600年) | |
4月16日 | 家康が上杉討伐に出陣(大坂城発) |
4月17日 | 家康が伏見城に立ち寄り、元忠らに別れを告げる |
7月15日 | 三成らによる降伏勧告、元忠はこれを拒絶 |
7月17日 | 佐野綱正が援軍に到着(大坂城より) |
7月25日 | 伏見城が完全包囲される |
7月29日 | 戦闘開始 |
7月30日 | 戦闘中、伏見城が炎上 |
8月1日 | 鳥居元忠ら全員討死、伏見城が陥落 |
以上、関ヶ原合戦の幕開けとも言える伏見城の攻防戦と鳥居元忠の最期を紹介してきました。元忠の死を知った家康が、関ヶ原の決戦に奮い立ったことは想像に難くありません。
徳川家康の生涯を語る上で、決して欠かすことの出来ないこのエピソードが、今後どのように描かれていくのでしょうか。
後世「三河武士の鑑」と謳われた鳥居元忠の生きざまと最期を、末永く語り伝えていきたいですね。
※参考文献:
- 『名将言行録 6』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『かくれた史跡100選 京滋の観光』京都新聞社、1972年2月
- 歴史群像編集部 編『戦国驍将・知将・奇将伝 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』学研プラス、2007年1月
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