伏見城)豊臣秀吉~徳川家康~徳川家光|指月・木幡山・桃山・伏見城がくぐり抜けた激動の歴史を紹介!

伏見桃山城(画像:「伏見をおもふ」撮影)

かつて豊臣秀吉が自身の隠居いんきょとして築城し、災害や戦火をくぐり抜けて再建された歴史を持つ名城です。

そこで今回は、伏見城の歴史】を紹介したいと思います。

伏見城と言えば、多くの方が連想するこちらの天守閣。ただしこちらは、近年になって再現建築されたもの(画像:「伏見をおもふ」撮影)

伏見と言えば、歴史ファンにとって憧れの地。

筆者は中学時代の修学旅行でちょっとだけ立ち寄りましたが、あの時 もっとじっくり見学していればと後悔しきりです。(まだ、お城内展示も公開していました)

そんな伏見の三大名物(筆者の主観)と言えば、伏見稲荷大社と雀焼き、そして《伏見城》。

伏見城の歴史

第一期・指月しげつ伏見城

伏見城は豊臣秀吉が自分の隠居所とするため、文禄元年(1592年)に伏見の指月の丘(伏見区桃山)で築城を開始しました。現在の模擬天守が立つ位置より観月橋駅に程近い指月の丘になります。

現存する指月城址の一部(石垣)に往時を偲ぶ。(画像:「伏見をおもふ」撮影)
伏見指月城跡から発掘された、堀東側の石垣の一部に往時を偲ぶ。
(画像:「伏見をおもふ」撮影)

……於伏見太閤隠居城立トテ事々敷普請此頃在之云々……

【意訳】このごろ、伏見にて秀吉が「隠居城を建てるから」ということで、ことごとしく(大規模な)普請ふしんを始めたとか。

※『多聞院日記』文禄元年(1592年)9月3日条
『都名所図会』より、月見の名所として知られた指月。ここに秀吉の隠居城が築かれた。

この場所を選んだのは、地名の通り平安時代から月見の名所として知られたためで、工事中に千利休ごのみに造らせるよう指示しています。

……ふしみのふしんの事りきうにこのませ候てねんごろに申つけたく候……

【意訳】伏見城の普請については、利休(りきうりきゅう)の好みに合うようしっかりと指示を受けるように。

※秀吉から前田玄以にあてた書状(文禄元・1592年12月11日付)

黄金の茶室など金ピカ趣味の秀吉にしては意外ですが、隠居後は侘寂わびさびの精神を学びたかったのかも知れません。

また、今後この一帯が栄えることを見越した町民が多く移住したと見られ、城下町が整備されていきました。現代でも聚楽じゅらく町・朱雀すじゃく町・神泉苑しんせんえん町などの地名が伝わります。

着工から2年が経った文禄3年(1594年)、あらかた出来上がったようで秀吉が移り住みました。その前年にも伊達政宗だてまさむねを招いたり、前田利家としいえと茶会を開いたりなど活用されたそうです。

果たして文禄5年(1596年)、4年の歳月を経てついに完成。後の時期と区別するため、この城を指月伏見城と呼ぶこともあります。

しかしこの年のうるう7月12日から13日にかけて、大地震が発生。後世にいう慶長伏見大地震です。

月岡芳年「大日本名将鑑」より、倒壊した指月伏見城を脱出した秀吉と、救援に駆けつけた加藤清正の図。ただし清正は当時京都におらず、このエピソードは後世の創作と見られている。

かねて「なまつ大事(なまづ=鯰、転じて地震に備えよ)」と言っていたものの、想定外の激震に天守閣が倒壊する大損害。

幸い助かった秀吉は無事であった台所で一晩を過ごし、翌日に北東約1キロ地点の木幡山こはたやまに仮小屋を建てて避難生活を送りました。これが後に木幡山伏見城と呼ばれる城の始まりです。

ちなみに、この大地震をキッカケに同年10月27日に文禄から慶長へと改元されます。

第二期・木幡山伏見城【豊臣時代】

さて、木幡山に避難した秀吉は、地震から2日後となる閏7月15日に築城の指示を出しました。

幸い地震による火災はなかったようで、指月伏見城の建材を多く再利用できたことから、約3か月後の10月10日には本丸が完成します。

その後も着々と工事が進み、慶長2年(1597年)完工。このスピード工事は資材の再利用もさることながら、前からこの地に城を築く計画があったという説もあるようです。

※本来は木幡山に城を築き、指月はあくまで隠居屋敷ていどの規模を考えていた等。

果たして慶長2年(1597年)5月4日に秀吉が入城しました。

……五日大雨、伏見御城殿守ノ丸へ昨日御移徒……

【意訳】5月5日、大雨。秀吉は昨日、伏見城の天守丸(本丸)へ御移りになった。

※『義演准后日記』

現存している縄張り(間取り、城郭設備の配置)図は朝鮮出兵の前線基地として築いた肥前名護屋城と類似していたと言います。

『山城国諸国古城之図(浅野文庫所蔵)』より、木幡山伏見城の縄張図。

『山城国諸国古城之図(浅野文庫所蔵)』によれば、本丸を中心として、東に名護屋丸・南に右衛門尉郭うえもんのじょうかく・西に西丸・北に松ノ丸が配されていました。

西南西には治部少輔曲輪じぶのしょうすけくるわが張り出しており、ここは重用していた五奉行の一人・石田三成が詰めていたのでしょうか。

ちなみに右衛門尉郭の右衛門尉とは同じく五奉行の一人増田長盛を指し、やはり秀吉に厚く信頼されていたようです。

完成当初は伏見と大坂城を行き来していた秀吉ですが、最晩年にはこちら木幡山伏見城にいることが多くなりました。

そして慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は木幡山伏見城で世を去りました。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢

※秀吉の辞世

享年62歳。それまで一緒に住んでいた嫡男の豊臣秀頼は、秀吉の遺言によって大坂城へ移ります。

代わって入城したのが、秀吉から秀頼の補佐を託された五大老の一人・徳川家康でした。

第三期・木幡山伏見城【徳川時代】

さて、慶長4年(1599年)3月に留守居として伏見城へ入った家康。しかし同年9月には秀頼を補佐するため大坂城へ移ってしまい、鳥居元忠が城代として入ります。

政治の中心が完全に大坂城へ移ったことから、それまで伏見城下に屋敷を構えていた大名たちは一斉に移住。たちまち廃れてしまったということです。

……諸大名悉く大坂へ家居以下引越され候、伏見の儀は荒野に罷り成る可き躰に候……

【意訳】大名たちはことごとく立ち去ってしまい、伏見下はまるで荒野のようになってしまった。

※「島津義弘書状」

やがて慶長5年(1600年)に徳川家康率いる東軍と石田三成(総大将は毛利輝元)率いる西軍の決戦、いわゆる「関ヶ原の合戦」が勃発すると、伏見城は西軍によって血祭りに上げられてしまいました。

西軍に攻められ、陥落する伏見城(イメージ)

……石田治部将(ママ)。謀叛をおこ志て。あき(安芸)乃森(毛利)。志ま津”(島津)。あんこく寺。小西摂津守。ま志た右衛門督。ぎふ中納言。宇き田中納言。てう寸可”め(長宗我部)。小田之ちやう志ん。其外大名共可”。跡丹て敵尓成。伏見之城を責取而。松平主殿助。松平五郎左衛門。鳥居彦右衛門。内藤彌次衛門を打取。可ち時を津くりて。……

【意訳】石田三成は謀叛を起こして毛利輝元・島津義弘・安国寺恵瓊・小西行長・増田長盛・織田秀信・宇喜多秀家・長宗我部盛親その他の大名たちが伏見城を攻め落とし、松平家忠・松平近正・鳥居元忠・内藤家長(※)らを討ち取り、勝鬨を上げた。

(※)彌次衛門は家長の父・内藤清長だが、とっくに死んでいるため、誤記と思われます。

※大久保忠教『三河物語』

……三成は大谷吉隆。安国寺恵瓊等とはかり大坂へ馳参り。秀頼の仰なりとて諸国へ軍令をふれまはし。毛利宇喜田をはじめ小西。立花。島津等。すべて九国中国の大名小名雲霞のごとくよびあつめ。まづ伏見の城を攻落し。鳥居元忠以下を討取たるよし。……

【意訳】三成は大谷吉継・安国寺恵瓊と共謀して「秀頼様のご命令だ」と騙って諸大名を集め、手始めに伏見城を攻め落とし、鳥居元忠らを討ち取ったそうだ。

※『東照宮御実紀』巻四 慶長五年「三成等矯秀頼命集諸将」

この伏見城の合戦で元忠らは死力を尽くして奮戦するも武運尽きて壮絶な最期を遂げました。

城には火がかけられ、ことごとく灰燼に帰したと言われる一方、各地に「伏見城の合戦で討死した者たちの血がついた板が再利用されている」という伝承が残されているとか。

真偽のほどはともかくとして、家康への忠義を貫き通した三河武士の矜持が、今なお愛されているようです。

第四期・再建伏見城【~家光時代】

関ヶ原の合戦に勝利し、元忠の仇をとった家康は慶長6年(1601年)3月に伏見入り。伏見城の再建と二条城の建設に着手しました。

翌慶長7年(1602年)12月には再建され、家康が入城。焼け野原となっていた城下町には、次第に大名たちが戻ってきます。

伏見城で将軍宣下を受けた家康。

そして慶長8年(1603年)、家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、ここに全国的な武家政権を確立したのでした。

現代では江戸幕府(徳川幕府)として知られますが、家康嫡孫・徳川家光まで三代にわたって征夷大将軍の宣下を伏見城で受けていたことから、むしろ「伏見幕府」と呼んだ方が適切ではないかとする説もあるようです。

慶長10年(1605年)3月には、李氏朝鮮の使節を伏見城に迎え入れて会見。文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)における和議を成立させ、日朝関係がひとまず修復されました。

また同じ年に征夷大将軍の位が嫡男・徳川秀忠に譲られ、徳川家による武家政権が不動のものとなっていきます。

父から将軍職を譲られた徳川秀忠。やはり伏見城で将軍宣下を受けている。

慶長11年(1606年)になると家康は改修された駿府城へ移り、また秀忠も江戸城へ移りました。翌慶長12年(1607年)には家康の異父弟・松平定勝が城代を務め、以来番役が設置されました。

その後も将軍が上洛した時の居館として利用されてきた伏見城ですが、やがて慶長20年(1615年。元和元年)閏6月に一国一城令が発せられると、元和5年(1619年)には二条城を残して伏見城は破却(城割り)することが決定します。

翌年から城割りが開始され、かつての威容は見る影もなくなっていった伏見城。しかし元和9年(1623年)7月に徳川家光の征夷大将軍宣下は、やはりこの地で行われたのでした。

「生まれながらの将軍」徳川家光。彼の将軍宣下が、伏見城にとって最後の栄華となった。

……元和九年七月廿七日。 勅使伏見城に参向あり……

……次に官務淳和■学両院の別当。源氏長者の宣旨もちいで……

……廿八日諸大名伏見城にまうのぼりて各太刀馬代献じ。 将軍宣下を駕し奉る。……

※『大猷院殿御実紀(徳川実紀)』巻一 元和九年「家光任内大臣」「家光叙正二位」

これが最後の賑わいとなり、伏見城は完全に破却されていったのです。

天守閣の廃材が二条城に再利用されたほか、多くの建材資材が福山城・淀城など各地に移築されていきました。

第五期・廃城後【桃山城】

かくして歴史の表舞台から姿を消していった伏見城。

後の元禄年間(1688~1704年)、跡地に桃の木が多く植えられたことから人々はこの地を桃山と呼ぶようになり、かつてあった伏見城も「桃山城」と呼ばれました。

家康らが活躍した時代は歴史分類上「安土桃山時代」と言われますが、「桃山」とはこの伏見城を指しているのです。

姿を消している点では織田信長が築いた安土城と同じであり、華やかなりし往時が夢幻の如く偲ばれます。

明治天皇陵(画像:Wikipedia)

やがて時代は下って大正元年(1912年。明治45年)に明治天皇が崩御されると、伏見城の本丸跡地が陵墓として造営されました。今日も伏見桃山御陵(明治天皇陵)として宮内庁が管理しています。

また、花畑跡地では昭和39年(1964年)に伏見桃山キャッスルランドが開園。「お城のある遊園地」として人気を呼び、平成15年(2003年)の閉園まで愛され続けました。

令和5年(2023年)時点では大小の模擬天守(安全上の理由で立入不可)が青空を衝くようにそびえたち、秀吉をはじめとする英雄たちの遺徳を人々に伝えています。

伏見城の略年表

文禄元年(1592年)秀吉の隠居所として指月の地に築城開始(指月伏見城)
文禄3年(1594年)秀吉が入城
文禄5年(1596年。慶長元年)指月伏見城が完成するも、その直後に慶長伏見地震で倒壊
秀吉は北東約1キロの木幡山に新たな城を築く(木幡山伏見城)
慶長2年(1597年)木幡山伏見城が完成
慶長3年(1598年)秀吉没、豊臣秀頼は大坂城へ移り、代わりに徳川家康が入城
慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で西軍に攻められ、鳥居元忠らが討死。城も焼失
慶長7年(1602年)ごろ焼失した伏見城が再建される
慶長8年(1603年)家康が伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける
慶長10年(1605年)李氏朝鮮の使節を迎え、朝鮮出兵の和睦が成立
秀忠が伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける
元和5年(1619年)一国一城令による廃城が決定する
元和9年(1623年)徳川家光が伏見城で将軍宣下を受ける
伏見城が完全に破却される
~元禄年間(1688~1704年)跡地に桃が植えられ、桃山(桃山城)と呼ばれる
大正元年(1912年)本丸跡地に明治天皇の御陵(伏見桃山陵)が造営される
昭和39年(1964年)花畑跡地に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が開園
平成15年(2003年)「伏見桃山城キャッスルランド」閉園

※参考文献:

  • 小和田哲男『城と秀吉 戦う城から見せる城へ』角川書店、1996年8月
  • 仁木宏ら編『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』吉川弘文館、2015年5月
  • 大久保忠教『日本戦史材料 第貮巻 三河物語 全』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『徳川実紀 第壹編』『徳川実紀 第貮編』国立国会図書館デジタルコレクション

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ライター:角田晶生