元亀4年(1573年)7月18日、2世紀余りの永きにわたる室町幕府が、その歴史に幕を下ろしました。
第15代将軍・足利義昭が織田信長の軍門に下り、立て籠もっていた槇島城から追放されたのです。
今回はそんなドラマの舞台となった槇島城(真木島城)を紹介。その歴史をたどってみましょう。
巨椋池に浮かぶ槇島城
槇島城の起源についてはハッキリしませんが、在地の土豪である真木島氏の築いた館が原形と考えられます。
ちなみに槇島という地名は元々この辺りが島だったためで、かつては巨椋池に浮かぶ島の一つでした。
宇治川の 川瀬も見えぬ 夕霧に槇の島人 舟よばふなり
【意訳】宇治川に濃い霧が出て流れもよく見えぬ中、槇島の住人が渡し舟を呼んでいる。
※『金葉和歌集』藤原基光
史料を見ると、応仁の乱に際して東軍に属した成身院光宣が、宇治槇島館に軍勢を入れた記録があります。
また文明10年(1478年)には山城国上三郡の守護代となった遊佐国久が、郡代を槇島館に入れました。
明応8年(1499年)になると幕府管領の細川政元が、畠山尚順の守っていた槇島館を攻め落とします。
これ以降、政元は槇島館が気に入ったのか、長く滞在するようになりました。
後に将軍・足利義澄を何度も招くなどしていることから、それに相応しく城郭を改修整備したものと考えられます。
そのため、この辺りが槇島「館」から槇島「城」に生まれ変わった時期とする説もあるようです。
文亀元年(1501年)6月には義澄が槇島城へ下向し、政元と酒宴や猿楽を楽しみました。翌文亀2年(1502年)2月には政元が義澄を招いて鷹狩りに興じています。
この帰り道、共に参加していた三条西実隆がこんな歌を詠みました。
浮雲に消えをあらそふ水の上のあはれとぞ思ふ真木の島人
【意訳】次々と消える浮雲のような運命が待っている、宇治川に浮かぶ槇島の人々が泡沫のようで、実に哀れ(泡れ)でならない。
※『再昌』
表面的にこそ親しげな二人ですが、水面下の火種がいつ燃え盛るか分かりません。
両雄の衝突が全面抗争に発展すれば、この槇島はたちまち滅ぼされてしまうだろう。そんな懸念が詠まれたのでしょうか。
果たして同年4月、一触即発の事態を回避するべく義澄が政元の説得に訪れました。
これでひとまず政元の怒りは解けて和解。翌文亀3年(1503年)2月に仲直り?の蹴鞠大会が槇島城で開かれます。
そして同年10月には政元の方が上洛。何度も足を運んだ義澄の態度に折れたのでしょうか、何だか三顧の礼みたいですね。
しかし永正元年(1504年)3月、槇島城を預けていた守護代の赤沢宗益が謀叛を起こし、鎮圧される事件が発生。政元にとっては勝手知ったる我が城ですから、攻略も容易だったのでしょうか。
赤沢宗益は一時逃亡したものの、6月に赦されて再び槇島城を任されます。政元も度量が大きいですね。と思ったら同年9月に赤沢宗益は再び謀叛を起こします。
細川被官・薬師寺元一が淀古城に拠って挙兵したのに乗じた形であり、捲土重来を期したのでしょうが、又しても打ち払われてしまいました。
この戦闘によって赤沢宗益は行方不明となり、槇島城一帯は焼け野原となってしまいます。かつて三條西実隆が危惧した通りの展開ですね。
戦後、槇島城が焼け残ったのか修復されたのか、永正4年(1507年)には大和国へ遠征する赤沢長経や内堀次郎左衛門尉が槇島城に着陣しています。
ちなみに赤沢長経は二度も謀叛した赤沢宗益の子。「親子は別人格だから」と割り切ったのかどうか、政元の度量が大きいというかちょっと脇が甘いのかも知れません。
翌永正5年(1508年)には山城国守護として上洛した大内義弘の被官・弘中武長が槇島城に入り、この地に留まります。また大内家臣団の一部も城下に従い、槙島在城衆と呼ばれました。
このように、槇島城は京都南部の要衝・守護所として管領・細川政元が抑え、大きな存在感を保っていたことが分かります。
信長・義昭の最終決戦
そんな槇島城が再び歴史の大舞台となったのは元亀4年(1573年)7月3日。足利義昭がかねて対立していた織田信長との講和を破棄し、ここに立て籠もったのです。
京都の二條御所は側近の日野輝資や伊勢貞興、三淵藤英らに任せ、自身は真木島昭光らと共に信長らを迎え撃ちます。
「やれやれ、懲りないヤツだな」
信長がそうぼやいたかどうか、7月6日に兵を挙げてまずは京都へ向かいました。二條御所に立て籠もる側近どもを蹴散らすためです。
「お助け下さい!我々はただ、公方様に脅されて仕方なく従っただけなのです」
たちまち詫び言を並べ立てる連中から人質をとり、彼ら自身を従軍させて信長は槇島城へと進撃しました。
織田の総勢七万騎以上、その顔ぶれは以下の通り(各項目、総大将除き50音順)です。
【本軍】織田信長・青地元珍・明智光秀・荒木村重・池田孫太郎・小川祐忠・弓徳左近兵衛・京極高次・後藤高治・佐久間信盛・柴田勝家・進藤賢盛・多賀常則・永田刑部・永原重康・丹羽長秀・羽柴秀吉・蜂屋頼隆・平野某・細川忠興・細川幽斎・山岡景隆・山岡景猶・山岡景宗・山崎片家、など
【別動隊】稲葉一鉄・安藤守就・飯沼勘平・市橋利尚・氏家直昌・斎藤利治・島右京助・島彦六・種田正元・不破彦三・不破光治・丸毛兼利・丸毛光兼、など
※『信長公記』より
昔から京都の防衛線となってきた宇治川を前に、往時の鎌倉武士(梶原景季と佐々木高綱の先陣争い)を偲びつつ、一気呵成に渡渉します。
7月16日に宇治川を越え、7月18日には中書島からいざ槇島城へと押し渡る織田の大軍。対する籠城側はおよそ五千騎。決死の奮戦もむなしく城内への侵入を許し、四方から火をかけられてしまいました。
「もはやこれまで……」
とうとう信長に膝を屈した義昭。本来ならば切腹させるところでしたが、将軍弑逆の汚名を恐れた信長は、死一等を減じて摂津若江(大阪府東大阪市)へと追放します。
この時、義昭たちの身柄を護送したのは羽柴秀吉。義昭の駕籠をそれはもう美々しく飾り立て、かえって晒し者となるよう計らったとか。
また今回の合戦で義昭に加担した側近たちは徒歩裸足で随行させられ、遠路をゆく中で心身ともボロボロに。
「こんな事になるなら、織田殿に逆らうなど愚かなことをせねばよかった……」
あまりの哀れさに、沿道の人々は笑うどころか同情すら催したとかどうだか。かくして室町幕府は滅亡したということです。
エピローグ
その後、槇島城は細川昭元(のち信長の字を授かって細川信元)に預けられました。
山城国の守護所であった槇島城を昭元に与えることで、義昭の権威を否定する効果を狙ったのでしょう。
さらに塙直政や井戸良弘に受け継がれた槇島城ですが、やがて秀吉が伏見城を築くと、その戦略的価値が相対的に減退。ほどなく廃城とされたのでした。
現代では往時の威容を偲ばせる遺構などほとんどなく(巨椋池も昭和期の干拓でほとんど宅地に)、近隣の公園(薗場児童遊園、槇島公園)に石碑などが建っているのみ。
かつて義昭が幕府最高の野望を燃やし立て籠もった夢の跡。機会に恵まれたら、ちょっと立ち寄ってみたいですね。
槇島城・略年表
時期不詳 | 在地の土豪・真木島氏により「槇島館」が築かれる |
時期不詳 | 応仁の乱(1467~1477年)に際し、成身院光宣(1390年生~1469年没)が東軍を率いて入城する |
文明10年(1478年) | 山城守護代・遊佐国久が郡代を入城させる |
明応8年(1499年) | 細川政元が槇島館を攻略。以後居城とする |
その後、しばしば将軍・足利義澄を招いて交流する | |
永正元年(1504年) | 政元の被官・赤沢宗益が3月に謀叛を起こして鎮圧され、同年6月に赦されるも9月に再び謀叛を起こして逐電する |
一連の戦いで槇島城一帯は焼け野原になる | |
永正4年(1507年) | 大和国へ遠征する赤沢長経や内堀次郎左衛門尉が着陣 |
永正5年(1508年) | 弘中武長(大内義弘の被官)が槇島城に入城する |
元亀4年(1573年) | 槇島城の戦い。足利義昭が立て籠もるが織田信長に敗れて追放される(室町幕府の滅亡) |
時期不詳 | 秀吉が伏見城を築くと槇島城は戦略的価値を失い、やがて廃城となる |
※参考文献:
- 太田牛一『信長公記』国立文書館デジタルアーカイブ
- 奥野高広『人物叢書 足利義昭』吉川弘文館、1989年12月
- 京都学研究会 編『京都を学ぶ【宇治編】』ナカニシヤ出版、2023年3月
- 歴史群像編集部『【全国版】戦国時代人物事典』学研プラス、2009年11月
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