京都府【淀城】が2つ !? 淀君(茶々)の名前で知られる淀城。実は新旧二つあるの知ってた?【淀古城編】

伝 淀君肖像(画像:Wikipedia)

淀城(よどじょう)と言えば、伏見城と並んで伏見を代表する名城の一つです。

伏見を訪れるなら、お城ファンでなくても一度は行ってみたい!そんな方も多いのではないでしょうか。

しかしご注意ください。淀城は伏見に二城もあるのです。

立派な石垣が現存しているのは、江戸時代に築城された新しい方の淀城。
立派な石垣が現存しているのは、江戸時代に築城された新しい方の淀城。

 

一つは室町時代から安土桃山時代にかけて存在した淀城。もう一つは江戸時代に築かれた淀城。

どっちも同じ名前で紛らわしいため、古い方を便宜上「淀古城(よどこじょう)」などとよぶそうです。

淀古城の跡地に建立された妙教寺(画像:Wikipedia)

 

多くのお城ファンや戦国マニアが想像するであろう「淀城」は多分こちら。あの淀君(よどぎみ。茶々、秀吉側室)のあだ名の由来にもなっています。

なので今回はこちら淀古城の歴史をざっくり紹介。皆さんも伏見を訪れた際には、ぜひ足を運んでみてくださいね。

 

川の交わる要衝ゆえ、しばしば戦場となった淀古城

淀城の主として最も有名であろう羽柴秀吉。しかし彼が治める前にも、多くの城主が存在していた。

 

淀という場所は京都の南方にある、宇治川・桂川・木津川の合流地点。古来水陸流通の要衝として栄え、問丸(問屋)や魚市など商業が発展しました。

また山城(京都府)・摂津(大阪、兵庫)・河内(大阪)と国境が近いためしばしば政治抗争の舞台となっています。

そんな淀の地に築かれた淀古城の起源は未詳ながら、室町時代の中期〜後期には存在していました。

文献上の初出は『東院年中行事』に山城守護所を勝竜寺城から移転したと思しき記述(文明10・1478年)があることと考えられます。

また『細川両家記』などには永正元年(1504年)には摂津守護代の薬師寺元一が時の室町管領・細川政元に抗して「淀之城」へ立て篭もった記録もありました。

永禄2年(1559年)には細川氏綱が入城したことや、永禄6年(1563年)には山科言継や高倉宰相中将を招いて千句会を開いていることから、やんごとなき方を迎えても恥ずかしくない規模や造りであったことが分かります。

元亀3年(1572年)には三好三人衆の一人・岩成友通が兵を挙げ、織田信長に対抗せんがため淀古城に拠ったものの、織田部将の細川幽斎に攻略されたと『信長公記』にありました。

天正10年(1582年)に信長を本能寺の変で暗殺した明智光秀は、勝竜寺城や淀古城に兵を配置します。

そして仇討ちに来襲する羽柴秀吉を迎え撃つもあえなく敗退。そして淀古城は小野木重次に預けられたのです。

 

茶々が待望の男児懐妊。秀吉の描いた幸せな夢

伝 淀君肖像(画像:Wikipedia)

 

それからしばらく経った天正17年(1589年)、織田政権≒天下人の座を継承した秀吉は寵愛する側室・茶々(浅井三姉妹の長女)に淀古城を与え、美しく改修させます。

このことから、彼女が人々から「淀君(淀殿、お淀の方など)」と呼ばれたのは有名ですね。

やがて淀城で待望の男児・鶴松(捨丸)が誕生。秀吉夫妻の喜びようは天にも登る勢いだったことでしょう。

しかし喜びも束の間。鶴松がわずか3歳で世を去ると、秀吉は失意のあまり淀古城を取り壊してしまいました(少しタイムラグあり)。

時に文禄4年(1595年)。秀吉の思い描いていた幸せな夢が、音を立てて崩れ去るような光景だったのではないでしょうか。

なお、取り壊した淀古城の一部建材は、その当時建築中であった伏見城(指月伏見城)に再利用されたという説もあるそうです。

※むしろそちらに資材を回したいから、積極的に取り壊したとも考えられます。

伏見城と言えば、秀吉が最晩年を過ごした場所。暮らしの時おり垣間見える淀古城の名残に、複雑な思いがしたのではないでしょうか。

淀古城の歴史・略年表

『天禄太平記』より、畠山尾張守政長

 

室町時代中期畠山政長により築城されたと伝わる
文明10年(1478年)『東院年中行事』に神保与三佐衛門が淀へ入城した記録あり
永正元年(1504年)淀古城の合戦。薬師寺元一らが神保与三佐衛門らを攻略
天文21年(1552年)三好長慶と共に上洛した細川氏綱が淀古城に入る
永禄2年(1559年)細川氏綱が城主となる
永禄6年(1563年)山科言継らを招いて千句会が開かれる
永禄7年(1564年)細川氏綱が死去、三好長慶の甥・三好義継が城主となる
永禄9年(1566年)三好三人衆に攻略され、金子某が城主となる
永禄11年(1568年)上洛してきた織田信長に焼き討ちされる
天正元年(1573年)三好三人衆の一・岩成友通が羽柴秀吉に攻められる
天正10年(1582年)信長を討った明智光秀が淀古城を改修する
光秀を討った秀吉が、淀古城を小野木重次に預ける
天正17年(1589年)秀吉が淀古城を回収し、側室の茶々に産所として与える
秀吉の男児・棄丸(鶴松)が淀古城で誕生する
天正19年(1591年)鶴松が死去
文禄4年(1595年)秀吉の甥・羽柴秀次が切腹
淀古城の主であった木村重茲も連座、淀古城は廃される
寛永3年(1626年)城跡の一角に妙教寺(法華宗)が建立される
※文献により諸説あり

 

淀古城ゆかりの人物

落合芳幾「太平記英勇傳 岩成主税助左道(岩成友通)」

 

畠山政長

嘉吉2年(1442年)生~明応2年(1493年)閏4月25日没

淀古城を築き、山城国の守護所を勝竜寺城から移転した。

室町幕府の管領、守護大名として越中・河内・紀伊・山城守護を歴任する。同族の畠山義就と家督争いを繰り広げ、応仁の乱の一因となった。

最期は明応の政変に敗れ、細川政元に自害させられる。

細川氏綱

永正10年(1513年)4月生~永禄6年(1564年)12月20日没

永禄2年(1559年)から永禄7年(1564年)にかけて、淀古城の城主となる。

細川家庶流・細川尹賢の子。享禄4年(1531年)に敗死した父の仇を討つため天文7年(1538年)に挙兵。10年越しの戦いで細川本家・細川晴元の追放に成功した。

岩成友通

生年不詳~天正元年(1573年)8月2日没

出自は不明、大和国出身説あり。三好長慶の元で活躍し、三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)と共に三好三人衆と呼ばれた。

淀古城を攻められた時、味方の内通によって孤立してしまい、最期は細川藤孝家臣の下津権内に討ち取られる。

茶々(淀君、淀殿)

永禄12年(1569年)生~慶長20年(1615年)没

北近江の戦国大名・浅井長政とお市の方の間に誕生した。いわゆる浅井三姉妹(茶々、初、江)の長女。

父の敗死に伴い伯父の織田信長に引き取られ、後に母が柴田勝家と再婚するとこれに従う。

勝家の敗亡後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の側室となって棄丸(鶴松)・拾丸(豊臣秀頼)を生み、秀吉の寵愛を得た。

棄丸出産時の産所として淀古城を与えられ、それが通称「淀君、淀殿」の由来となる。

秀吉死後、秀頼の母として豊臣家中に絶大な権力を誇るも、徳川家康に滅ぼされた。

木村重茲

生年不詳~文禄4年(1595年)7月15日没

秀吉の家臣。金ヶ崎の合戦・賤ヶ岳の合戦など数々の武功により越前国府中に12万石を与えられる。

更に九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵(文禄の役)で活躍し、山城国淀18万石を拝領した。

淀古城の城主を務めるが、文禄4年(1595年)の秀次事件で秀次を弁護したことから秀吉の怒りを買い、切腹させられてしまう。

子の木村重成は豊臣秀頼に忠義を貫き、大坂の陣で討死した。

 

終わりに

妙心寺蔵 鶴松(捨丸)肖像。成長したら、どんな武将になっていただろう。

 

かくして、秀吉の夢と共に取り壊されてしまった淀古城。伏見城に再利用されたかも知れないとは言え、ちょっともったいなかったですね。

往時を偲ばせるものはそう多くありませんが、城址の北側に納所(のうそ)と呼ばれる場所があり、城之内・北城堀・南城堀などの地名が伝わっています。

そこから南におよそ500メートルほどの場所に、新たな淀城が築かれるのは元和9年(1623年)閏8月。淀古城が取り壊されてから29年後の事でした。

こちらも素晴らしいお城なので、お近くを訪ねた際にはどちらも堪能したいですね!

 

淀古城アクセス・基本データ

妙教寺境内にある淀古城址・戊辰役砲弾貫通跡(画像:Wikipedia)

 

〒612-8279 京都府京都市伏見区納所北城堀46(妙教寺境内に石碑あり)

京阪本線「淀駅」下車、徒歩約10分

※近くに駐車場がないため、公共交通機関の利用が便利です。

築城不明(室町時代中期)
城郭構造平城タイプ
天守閣構造不明
現存遺構なし(妙教寺の南側水路が堀跡とも)
文化財指定なし
再建築造物なし

 

近隣の史跡

戊辰戦争(慶応4/明治元・1868年。鳥羽伏見の戦い)にまつわるものが多い印象です。かつてこの辺りで、新政府軍と旧幕府軍の激闘が繰り広げられたのでした。

  • 戊辰之役東軍戦死者之碑(徒歩0分。妙教寺境内)
  • 戊辰役戦場跡の碑(約200m)
  • 唐人雁木旧址(朝鮮通信使の上陸地。約300m)
  • 淀古城薬師堂跡(約400m)
  • 鳥羽伏見之戦跡之地(約500m)
  • 淀城跡(約600m)

 

※参考文献:

  • 相賀徹夫 編著『探訪ブックス 城5 近畿の城』小学館、1981年3月
  • 小和田哲男 監修『日本の名城・古城もの知り事典』主婦と生活社、2000年11月
  • 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年10月

 

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ライター:角田晶生