【徳川家康】と【豊臣秀吉】が愛でた名月。石田三成が逃げ込んだ《 向島城 》の歴史をたどるストーリー

昔から「窮鳥、懐に入れば猟師も殺さず(顔氏家訓)」と言うように、追い詰められた人間が助けを求めてやって来れば、たとえ敵であっても殺すに忍びなく思うのが人情というもの。

また懐深く入った鳥を無理に殺そうとすれば、自分を傷つけてしまうリスクもあるため、そういう計算も含まれているのでしょう。

今回は戦国時代、石田三成がライバルの徳川家康に助けを求めたエピソードの舞台である向島城(むかいじまじょう)を紹介。

その築城から廃城まで、その歴史をたどっていきましょう!

秀吉が築いた「月見用の城」

『都名所図会』より、伏見指月・豊後橋・大池(巨椋池)

向島城はその名の通り、かつては巨椋池に浮かんでいた向島(指月の向かいにある島)に存在しました。

文禄3年(1594年)、時の関白・豊臣秀吉が築いた指月伏見城の支城として、宇治川(淀川)を隔てた南側に築きます。

指月の辺りは月見の名所として有名で、単に防衛拠点としてではなく、月見用の城でもあったとか。月見のために城を一つ築いてしまうなんて、天下人はスケールが桁違いですね。

元はこの辺りに徳川家康の私邸があり、そこで催された月見の宴に招かれ、月の見事さを気に入ったためとも言われています。

秀吉は指月と向島の渡る豊後橋(現代の観月橋)を架け、両城を行き来したと言います。この橋は江戸時代中期の『都名所図会』にも記されており、観光名所として永く人々に愛されました。

やがて慶長元年(1596年)に慶長伏見大地震が起こり、指月伏見城が倒壊してしまうと、秀吉は無事だった向島城へ移って仮の居城とします。この事から向島城を「向島伏見城」と解釈する説もあるそうです。

ほどなく慶長2年(1597年)に木幡山伏見城が築かれると、秀吉はそちらへ移っていきました。その後も月見が楽しまれたのでしょうか。

関ヶ原の前哨戦(伏見城の戦い)で焼失か

伏見城で将軍宣下を受けた家康。
秀吉の死後、豊臣政権を牛耳ろうと目論んだ?徳川家康。

やがて慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、豊臣秀頼を後見するため木幡山伏見城には家康が入って政務を補佐しました。

そんな中、豊臣政権内には家康の台頭を警戒する勢力があり、家康の身を案じる前田利家の提言によって家康は向島城へ拠点を移します。

前田利家のお陰で内部抗争が避けられていた豊臣政権。しかし慶長4年(1599年)に利家が世を去ると、抑えの効かなくなった武断派の七将(浅野幸長・池田輝政・加藤清正・加藤嘉明・黒田長政・福島正則・細川忠興)が石田三成を襲撃したのです。

彼らは朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)はじめ三成のやり方に不満を募らせており、その暴発を利家が辛うじて抑えていたのでした。

追い詰められ、万策尽きた三成は、政敵であった家康の元へ逃げ込みます。普通に考えれば「飛んで火に入る夏の虫」。そのまま家康に殺されるか、七将に引き渡されておしまいです。

しかし家康はこれをあえて殺さず丁重に匿い、七将を説得するのでした。もちろん慈悲の心などではなく、ヘイトを集める三成を生かしておくことで豊臣政権内の不和を増幅させ、その勢力を徐々に切り崩していくためと言われます(諸説あり)。

……ここに又福島。池田。両加藤。細川。浅野。黒田等の七将は朝鮮にある事七年。その間粉骨砕身して苦辛せし戦功を。故太閤勧賞のうすかりしは。全く三成の讒による所なれば。今三成に其怨を報ぜんといかりひしめくにぞ。三成大に驚き恐れ身の置所をしらず。浮田。上杉。佐竹等にはかねて三成としたしかりしかば。今この危急をすくハんには。 内府の御旨を伺ひ御あはれみをこはざる事を得じとはかり。佐竹義宣深夜に三成を女輿にのせて伏見に参り。ひたすら御なさけをこひ奉る。そのほど福島加藤等の諸将は。三成とりのがさじと跡より追来る。されども 君かひがひしく請がひ給ひ。七将の輩をもとかくさとし給ひ。三成をば職掌を削りて佐和山へ蟄居せしめらるゝとて。佐和山まで三河守秀康卿をもて送らしめらる……

註:文中「伏見」とあるのは木幡山伏見城ではなく、向島城を含めた伏見一帯と考えられます。

※『東照宮御実紀』巻四 慶長四年「家康救三成」

三成が「家康は自分を殺さない」と読んだ上で家康に助けを求めたのか、それとも一か八かの賭けだったのか、この辺りは解釈が分かれそうですね。

そして慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦は、木幡山伏見城の攻防(伏見城の戦い)で幕を開けました。

会津征伐へ向かう家康が木幡山伏見城を託したのは、人質時代からずっと一緒だった譜代の忠臣・鳥居元忠。城内を守る軍勢は約1,800ばかり。対する三成は数万とも十数万とも言われ、まさに捨て石でした。

この時、向島城がどうだったのか。詳しい記録は残されていません。ただ、本城すら満足に守り切れない状態で、兵力を分散させるとは考えにくい。と言って放置しておけば敵に奪われてしまいますから、あらかじめ焼き払うなどしたと考えるのが自然でしょう。

……城外の四面を巡見し其防に害ある所は、ことごとく焼払ひ、彌堅固に城をまもり、各籠城の持口をさだむ……

※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居

戦後、家康によって木幡山伏見城は再建されたものの、向島城はどうだったのでしょうか。本城の防御に必要な砦程度のものは築かれたかも知れませんが、往時の威容は夢のまた夢と思われます。

そして元和6年(1620年)に木幡山伏見城が廃されると、向島城も同じく廃城とされたのでした。
この時の廃材は、東本願寺の伏見別院を建立するため寄進されたということです。

終わりに

イメージ

向島城・略年表

文禄3年(1594年)秀吉によって向島城が築かれる
慶長元年(1596年)慶長伏見大地震で被災した秀吉らが向島城に避難する
慶長2年(1597年)木幡山伏見城が完成、秀吉がそちらへ移る
慶長3年(1598年)秀吉が病死、秀頼を後見していた家康が向島城に入る
慶長4年(1599年)七将に襲撃された石田三成が向島城へ逃げ込み、家康に保護される
慶長5年(1600年)伏見城の戦いに伴って破却?戦火で焼失?
時期不明家康により、木幡山伏見城と共に再建される
慶長20年(1615年)徳川秀忠により、一国一城令が発せられる
山城国では、二条城のみ残すこととなった
元和6年(1620年)廃城となる

以上、向島城の歴史について駆け足でたどってきました。巨椋池は昭和初期(8・1933年~16・1941年)に干拓されて姿を消し、大規模な都市開発が進められたため、戦国時代の遺風が感じられるものはほとんど残されていません。

わずかに伏見区の地名(大字)として「向島~」が33残っており、向島本丸町や向島二ノ丸町はその筆頭ですね。

他にも城や武家文化を偲ばせる地名として向島鷹場町(鷹狩りの痕跡)や向島又兵衛(家臣の名前?)など、命名の由来について興味が尽きません。

また往時の名残として、本丸や二ノ丸の跡地と推測されている地域については少し地盤が高くなっており、低くなっている所に堀がめぐらされていたと考えられています。

今も昔も月の美しさは変わらなかったと思いますが、家康に助けを求めて向島城へ逃げ込んだ三成も、月を見上げて我が身を慰めたのでしょうか。

ご当地を訪れる機会に恵まれたら、ぜひとも向島の月を愛でたいものですね!

向島城・基本データ

所在地京都市伏見区向島本丸町ほか
遺構現存せず(本丸跡などにわずかな段差あり)
形式平城・水城
交通近鉄京都線「向島駅」より北へ徒歩15分
京阪宇治線「観月橋駅」より南へ徒歩8分
関連施設なし
見学時間10~30分以内

※参考文献:

  • 中井均 監修『【図解】近畿の城郭 I』戎光祥出版、2014年8月
  • 仁木宏ら編『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』吉川弘文館、2015年5月
  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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ライター:角田晶生