関ヶ原の合戦|前哨戦となる伏見城の戦いより
時は慶長5年(1600年)8月1日。徳川家康の不在を衝いて挙兵した石田三成らは、鳥居元忠らの守備する伏見城を攻め落とします。
元忠らは、わずかな兵で奮戦するも衆寡敵せず。焼け落ちる場内で壮絶な最期を遂げるのでした。
かつて豊臣秀吉の隠居所として築かれ、家康の政務拠点となっていた伏見城。
その大半は戦火に失われてしまいましたが、他に移築されたことで存続している遺構も多く伝わっています。
今回は各地に移築された伏見城の遺構をまとめてみました。現地を訪れた際は、確認してみると面白いでしょう。
全国に散った伏見城の各部をご紹介
それではさっそく、全国各地に散っていった伏見城の各部を見ていきましょう。伝承を含め、往時の威容を現代に伝えています。
天守閣・櫓
お城と言ったら、天衝くばかりにそびえたつ天守閣や櫓がなくては格好がつきません。ということで、伏見城の天守閣は京都・二条城(京都市中京区)に移築されたと言います。
ただし伏見城の天守閣が移築されたのは寛永元年(1624年)、伏見城が廃された後のことでした。
また、櫓については福山城(広島県福山市)や膳所城(ぜぜじょう。滋賀県大津市)、岸和田城(大阪府岸和田市)そして尼崎城(兵庫県尼崎市)などに移築されたそうです。
特に福山城は西国に対する押さえとして普請に注力されているようで、櫓(伏見櫓・多聞櫓・月見櫓など)の他にも城門(鉄御門・追手御門など)や伏見御殿など多くの遺材が再利用されました。
ただし鳥居元忠が守備していた当時のものではなく、再建された後のものと言います。それでも「元忠の英霊が徳川家を守護してくれる」と考えられたのかも知れませんね。
城門
福山城の他にも、伏見城の城門は各地に移築されました。
有名なところでは同じ伏見区の御香宮神社、ここには大手門が移築されており、現代に堂々たる遺風を伝えています。
他には西本願寺の唐門(京都市下京区)・二尊院の総門(京都市右京区)・観音寺の山門(京都市上京区)が移築され、また瑞宝寺の旧山門(兵庫県神戸市)・浄照寺の表門(奈良県田原本町。高麗門)・本山寺の中門(大阪府高槻市)など各所で拝観可能です。
石垣
お城と言ったらそびえ立つ天守閣に、堅牢さを美しく装う石垣。
こちらは同じ伏見区の淀城(淀古城ではない方)や大坂城(大阪府大阪市)に再利用されているほか、石垣としてではありませんが、御香宮神社に残った石材が境内に保管されていると言います。
また、令和3年(2021年)に指月伏見城の石垣が出土したニュースもありました(11月30日・京都市埋蔵文化財研究所発表)。想定区域外にあったということで、従来のイメージ以上二大きなスケールであったことが分かります。
殿舎
伏見城内に建てられていた殿舎(御殿)は、さまざまな用途に用いられていました。移築前のどこに使われていたのかが分かると、より当時の情景が目に浮かびますね。
金地院の方丈(京都市左京区・重要文化財)
慶長16年(1611年)に金地院崇伝が第3代将軍・徳川家光より拝領されたと伝わりますが、年代に矛盾があるため後世の創作とも考えられます。
養源院の本堂(京都市北区)
浅井長政の菩提寺として有名なこちら。後ほど紹介する「血天井」もあるので、是非とも拝みたいですね。
都久夫須麻神社の本殿(滋賀県長浜市・国宝)
伏見城の日暮御殿を本殿に移築したものと伝わり、他にも豊臣秀吉の霊廟であった豊国廟からも唐門・観音堂などが移築されたそうです。
茶室
戦国武将と言ったら茶の湯。高雅な茶室は、主の権威と風格を演出する政治舞台でした。
高台寺の傘亭(京都市東山区・重要文化財)
同じく高台寺の時雨亭(重要文化財)
いずれも高台院(北政所・おね)によって慶長年間(1596~1615年)に伏見城から移築。利休好み(千利休デザイン)の茶室と伝えられます。
伏見城が完成する前に利休は自害していますが、その美学は後世に受け継がれたのでした。
移動式能舞台
福山城→沼名前神社(広島県福山市・重要文化財)
元は福山初代藩主の水野勝成が徳川秀忠より拝領、福山城内に移設したもの。第3代藩主の水野勝貞が万治年間(1658~1660年)に当社へ寄進し、元文3年(1738年)に固定式となったのでした。
晩年こよなく能楽を愛好した秀吉らしい趣向が凝らされています。
軍議評定所
文字通り、この建物で軍議が開かれました。名立たる武将たちが顔を突き合わせて、どんな戦略が語られたのでしょうか。
渡辺山守綱寺の本堂(愛知県豊田市)
正保元年(1644年)に移築されたもので、鴬張りの縁側や唐獅子牡丹の欄間などが現代に伝わります。
ちなみに、山号と寺号から分かるとおり、この寺院は徳川十六神将の一人・渡辺守綱の菩提寺です。
諸侯控えの間
拝謁にやってきた諸侯(諸大名)が、謁見を前に控えていた客間です。
三渓園の月華殿(神奈川県横浜市)
慶長8年(1603年)に家康が伏見城を整備した際に建築、伏見城が廃された後に三室戸寺金蔵院を経て大正7年(1918年)に移築されたものです。
血天井
伏見城の戦いで討死した者たちの血が染みついたとされる板を、供養の意味合いで寺院の天井に再利用したもの。各地に伝わっていますが、実際のところはどうなのでしょうか。
- 源光庵の本堂(京都市北区)
- 正伝寺の縁側(京都市北区)
- 養源院の本堂(京都市東山区)
- 宝泉院の廊下(京都市左京区)
- 栄春寺(京都市伏見区)
- 天球院(京都市右京区)
- 瑞雲院(京都市下京区)
- 興聖寺(京都府宇治市)
- 神応寺(京都府八幡市)
- 蔭凉寺の本堂(大阪府和泉市)など。
どれもこれも生々しいものばかりですが、怖いもの見たさではなく、英霊の遺勲を讃えるつもりで拝みたいものです。
【番外編】大坂城・江戸城の伏見櫓は?
豊臣政権の栄華を象徴した大坂城。そして徳川幕府の本拠地であり現代も皇居となっている江戸城。
これらの城にあった伏見櫓は、残念ながら伏見城から移築したものではないようです(そうだとする説もありますが、確かな史料がなく伝承の域を出ません)。
もしかしたら、伏見城の壮麗な威容にあやかろうと名づけられたのかも知れませんね。
終わりに
以上、伏見城から移築されたと伝えられる各地の遺構について紹介してきました。
昔は木材を可能な限り再利用することが多く、伏見城もかつて淀古城が廃された時の廃材を再利用しているなど、限りある資源を大切に使っていたのですね。
今回紹介した他にも、伏見城が移築されたとする伝承が各地にあるものの、その多くは家康による再建以降のもののようです(元忠が守っていた当時の伏見城は、ほとんど焼失しているはずですから)。
それでも鳥居元忠が守り抜いた忠義の精神にあやかろうと、多くの城や寺院などで「伏見城から移築した」という伝承が生まれたものと考えられます。
真偽のほどはともかくとして、それだけ鳥居元忠が慕われたことは間違いないと言えるでしょう。
かつて家康が天下取りの道を歩んだ重要拠点・伏見城。その面影が、今も大切に伝えられています。
※参考文献:
- 佐和隆研 編『京都大事典』淡交社、1984年11月
- 津田三郎『京都・戦国武将の寺をゆく』サンライズ出版、2007年3月
- 平井聖『日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社、1980年9月
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