実は「三ノ丸殿」→ 織田信長の娘!秀吉の嫁 !? 豊臣秀吉 と 二条昭実に嫁いだ流転の生涯【伏見城で…】

尾形月耕「日本花図絵 醍醐の花」

かつて天下布武を掲げ、戦国乱世に覇道を邁進した織田信長。志半ばにして非業の死を遂げた彼の血脈は、子供たちに受け継がれていきました。

今回は信長の娘として生まれ、のち豊臣秀吉・二条昭実に嫁いだ三ノ丸殿(さんのまるどの)を紹介。果たして彼女は、どんな生涯をたどったのでしょうか。

 

秀吉の「妾」にされる

三ノ丸殿(京都府雑華院所蔵)

 

三ノ丸殿は生年不詳。母親は慈徳院(長兄・織田信忠の乳母)と伝わります。実名も不詳のため、ここでは便宜上「三ノ丸殿」で統一します。

『寛政重脩諸家譜』によると信長の九女だそうです(ほか『系図纂要』や『織田系図』では五女という設定)。

天正10年(1582年)6月2日にいわゆる「本能寺の変」で父・信長が横死すると、母に連れられて姉聟(※信長の侍女で異母姉の相応院と結婚)であった蒲生氏郷のもとで保護されました。

やがて氏郷の養女となった三ノ丸殿は、氏郷の妹である三条殿(実名は“とら”)と共に豊臣秀吉の側室として差し出されます。実質的な人質です。

女子 母は信忠におなじ。岡崎三郎信康君の室。

女子 蒲生飛騨守氏郷が室。

女子 筒井伊賀守定次が室。

女子 前田肥前守利長が室。

女子 丹羽五郎左衛門長重が室。

女子 二條関白昭實公の室。

女子 萬里小路大納言充房が室。

女子 水野東市正忠胤が室、のち佐治與九郎一成に嫁す。

女子 豊臣太閤秀吉の妾、三丸と称す。

女子 中川右衛門大夫秀政が室。

女子 徳大寺中納言實冬が室。

女子 實は苗木勘太郎某が女、信長に養はれて武田四郎勝頼が室となる。

※『寛政重脩諸家譜』巻第四百八十八 平氏(清盛流)織田

他の姉妹たちがみんな揃って「室(正室、側室など正式な妻)」として書かれている中、彼女だけは「妾」すなわち愛人ポジションとされていました。

誇り高き織田家の娘が、草履とり上がりの猿めに嫁ぐことになろうとは……そんな屈辱感が伝わってくるようです。

三ノ丸殿が秀吉に嫁いだ経緯や時期については不明ですが、秀吉が伏見城(指月伏見城)を築いた文禄年間(1592~1596年)ごろと考えられています。

伏見城の三ノ丸には、彼女のために住まいが築かれたことから「三ノ丸殿」と呼ばれるようになりました。

 

 

花見を楽しむ秀吉たち。
喜多川歌麿「太閤五妻洛東遊観之図」

 

そんな三ノ丸殿の存在が史料上に出て来るのは慶長3年(1598年)3月15日、最晩年の秀吉によって催された醍醐の花見。

輿の序列は一番に北政所(正室おね)、二番目に西ノ丸殿(淀君)、三番目に松ノ丸殿(京極高吉女)、三ノ丸殿は四番目でした。

※五番目には加賀殿(前田利家女)、そして六番目に来賓のまつ(前田利家正室)が続きます。

最盛期で300人を超えるとも言われた秀吉の妻妾の中で、三ノ丸殿はトップクラスの寵愛を受けていたようです。

ここで秀吉の寵愛が深い西ノ丸殿と、側室として先輩格の松ノ丸殿が盃をめぐって争い、まつに窘められる椿事がありました。

三ノ丸殿はオロオロしていたのか、知らん顔だったのか、あるいは内心ニヤニヤ見ていたのかも知れません(キャラクターづけ次第で、とても創作がはかどりますね)。

何やかんやありましたが、同年8月18日に秀吉は世を去ったのでした。

 

秀吉の死後、二条昭実と再婚

二条昭実(個人像)

 

三ノ丸殿は秀吉を供養するため、妙心寺(京都市右京区)に韶陽院を建立。夫の喪に服します。

翌慶長4年(1599年)ごろ、喪が明けたため三ノ丸殿は摂関家の二条昭実と再婚。昭実は正室に先立たれており、継室(正式な妻)として遇されました。

※ちなみに、姉の「さこの方(信長養女・実父は赤松政秀)」も二条昭実の側室として嫁いでおり、法名が同じことから同一人物との説もあるようです。しかし、彼女が嫁いだ時期は天正3年(1575年)ごろと考えられており、恐らく別人物だったのではないでしょうか。

二条昭実(弘治2・1556年生)はこの当時44歳。三ノ丸殿の年齢は不詳ながら恐らく20代(歳をとっていても30代)、生活のためとはいえ、随分な歳の差婚ですね。

彼女の新たな人生が幸せだったのか、その暮らしぶりを伝える史料はあまり多くありません。ただ慶長7年(1602年)には昭実の実弟・三宝院義演に紙や布、樽など生活物資を送った記録があり、姻族との交流が見られます。

そして慶長8年(1603年)2月5日、三ノ丸殿は世を去りました。法号は韶陽院殿華厳浄春大禅定尼、墓所は秀吉の菩提を弔った京都の妙心寺にあります。

 

終わりに

尾形月耕「日本花図絵 醍醐の花」

 

年代不詳信長と慈徳院の娘として誕生(1歳)
天正10年(1582年)本能寺の変で母と共に逃れ、姉聟の蒲生氏郷に保護される(~10代?)
文禄年間(1592~1596年)ごろ秀吉の妾として嫁ぎ、伏見城の三ノ丸に住まう(10~20代?)
慶長3年(1598年)醍醐の花見に参加する(側室序列3位)
秀吉が亡くなり、菩提を弔う(20代?)
慶長4年(1599年)ごろ喪が明けて二条昭実と再婚する(20代?)
慶長7年(1602年)義弟・三宝院義演に生活物資を支援する(20代?)
慶長8年(1603年)世を去る(20代?)
三ノ丸殿・略年表(C)伏見をおもふ

 

以上、三ノ丸殿の生涯を駆け足でたどって来ました。

信長の娘として生まれながら、父の家臣であった秀吉の妾に嫁がされ、その死後に二条昭実と再婚する目まぐるしい人生。まさに万物流転・諸行無常を絵にかいたようですね。

 

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年9月
  • 西ヶ谷忝弘『考証 織田信長事典』東京堂出版、2000年9月
  • 森実与子『戦国の女たち 乱世に咲いた名花23人』学研M文庫、2006年2月

 

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ライター:角田晶生